心の日記に書いた歌
あの曲がり角を越えたら家がある。
そう思って全力で走った。
黒い土、青い山、透明の空
それがわたしの瞼の裏の色だ。
赤とんぼ、蝉の声、草いきれ
そこに耳と脚の不自由な
わたしのおばあちゃんが座っている。
そしてヘンテコな歌を歌っている。
わたしが自分の名前を隠さずに
性暴力被害者だと名乗ろうとしたとき
そうした幼い頃の色や音や匂いが
わあああんと鳴り響きながら
胸いっぱいに湧き起こった。
わたしという人間の
わたしのこの名前には
そうした色や音や匂いがしみついている。
性暴力被害者だと名乗って
社会にものを申すと決めたとき
覚悟したのは
そうした親しみの色や音や匂いが
もしかするとわたしの人生から
もう永遠に消えてしまうかもしれない
ということだった。
それほどまでに沈黙が
当たり前のように存在していて
親しさの色や音や匂いと
選り分けることが困難だった。
でも、それらが失われることはなかった。
黒い土も赤とんぼもおばあちゃんの歌も
わたしのなかから消えることはなかった。
むしろ鮮明に理解できたのは
沈黙こそが
わたしからそうした親しみのあるものを
奪おうとしていたということだ。
伊藤詩織さんの『Black Box Diaries』のなかには
性暴力にたいして沈黙し続ける
日本人の姿が映し出されている。
性暴力にたいして声を挙げた伊藤さんのほかにも
当事者を助ける人がたくさん出てくる。
弁護士やジャーナリストや
タクシー運転手や警察官が
仕事のなかで彼女を助ける。
被害を告白して仕事ができなくなり
疲弊していく伊藤さんと
静かに働きつづける人々の
対比が奇妙に続いていく。
彼らが被害を受けていないわけではない。
ただ彼らは自らの被害について公に語らず
目の前の仕事に精を出す。
社会のなかでの役割を果そうとする。
仕事に対するプライドが語られる。
そして自らの被害については語らない。
もちろん彼らには語らない自由がある。
ただそれは語る自由があって初めて
自由と呼べるはずのものじゃないのかと思う。
強いられた沈黙。
そこに東京の雑踏がオーバーラップする。
画面のこちら側にいるわたしは
この色や音や匂いと、その沈黙を
選り分けたいという衝動に駆られていく。
そんななか、最後の方である人物が
「わたしはあなたのために
公の場で名前を出して
仕事を失ったっていい」
と言うシーンがある。
肩書を超える何かの表明。
それを聞いて伊藤さんは泣き崩れる。
観ているわたしのなかにも
幼い頃の色や音や匂いが
胸いっぱいに吹き込んでくる。
これが、彼女が心の日記に
書きたかったことなのかもしれないと感じた。
職業や立場を利用した
性暴力にあふれているのに
職業や立場に
こんなにも縛られている日本。
わたしはわたしだと
そのわたしが壊されたのだと
言うことがこんなにも難しい日本。
いつまでも加害者が透明な日本。
あの曲がり角を越えたら家がある。
そんな風に全力で人生を走り切ったとしても
自分自身の代わりなどいないと気づくのが
人生の終わりのときだったらとても悲しい。
おばあちゃんの歌は結局
わたしのなかで消えなかった。
ヘンテコでいい。
不完全でいい。
空白があったっていい。
それがあなたの歌ならば
必ず誰かを変えて行く。
(2025年5月13日)
「すぷだより」No.171に寄稿しました。

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