「ずるい」の気持ち

わたしは自分の言葉と生活を
切り離すことができない。
そのことを説明するために、最初に
わたしの小さな物語について書こうと思う。
性暴力にあったとき
わたしは最初
自分が何にたいする
どんな感情を
ぶつけられているのか
わからなかった。
相手はわたしを
モノとして扱い続け
その感情を語らなかったからだ。
なぜ自分はこんなにも
無作法で乱暴なことを
何の説明もなくされているのか?
混乱した。
混乱のうちに生き残り
現在に至ってもなお
日常生活のなかで
無意識に考えてしまう。
電車がホームに入るのを待つ数十秒や
信号の色が変わるのを待つ数秒間に
あれは誰に対するどんな感情だったのかと
ふと考えてしまう。
本当は一切、考えたくもないことだ。
考えると狂いそうになる。
いっそ狂えたら楽だとも思う。
それは加害者への
一種の「ケア」にあたるからだ。
被害者へのケアが
圧倒的に足りていないこの社会で
ひとりの被害者として
そんなことに使うキャパシティはない。
だけど、そんな瞬間を繰り返し
思考の輪郭は、はっきりしてきた。
加害者はきっと
わたし以外の誰かに対する
「ずるい」という気持ちを
代わりにわたしに向けたのだ。
その気持ち
その無作法
その性暴力は
わたしに向けられるべきではなかった。
本来なら「ずるい」という気持ちは
正しい相手との対話で
解決すべき情動だからだ。
一方で「ずるい」の気持ちが言えないのは
加害者だけではないとも思う。
わたしにも「ずるい」の気持ちはある。
けれどもわたしたちの多くは
政治的に漂白されていて
自分の考えを持つ人を見ると
「思想が強め」と口走る。
そうすることで
対話をキャンセルし
考えを持つことを互いに禁じている。
そこにあるのはやっぱり
「ずるい」の気持ちだと思う。
わたしたちは
自分の考えを語れる人のことを
「ずるい」と感じるよう仕向けられているのだ。
たしかに
暴力のある家庭では
自分の考えを持つことは
次の暴力の危険を高めるし
わたしたちは学校で
はみだした考えを持たないように育てられる。
それに加えて社会に出ると
いたるところに性暴力があり
それが放置されている現実の結果
自分の考えを持つことは
いたるところで禁じられている。
黙っていれば経済的な報酬にもありつける。
性暴力被害者の犠牲は「失敗例」として
見せしめに使われている。
このメカニズムが
性欲というひと言で
片付けられてしまっている。
だから以前は、日本の大きな物語には
性暴力被害者を救えとは書いていなかった。
しかしこれを
無数の小さな物語によって問い直すことで
わたしたちは刑法を改正した。
「ずるい」と向き合うのはここからだ。
どんな素晴らしい経典も
問い直すことをやめれば即座に腐る。
わたしたちは物語の語られ方を
問い直し続けなければならない。
問い直し、変わり続け
決して、自分自身が次の神話になど
ならないように生きなければならない。
だからわたしは自分の言葉と生活を
切り離すことができないのだ。
(2025年8月12日)

「すぷだより」No.177に寄稿しました。

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