しかくい怒り

テレビのしかくい画面の前で
無意識に自分の指先に触れていた。
20年前に
日本の性暴力報道について
卒業論文を書こうとして
書くことができなかった
あの日の指先の感覚を思い出したからだ。
当時はポルノみたいな報道が多く
性暴力被害のことを理解した報道は
ほとんどなかった。
それどころではなく
「被害者の恥になるから」と言って
性暴力があったことすら
記事に書いてもらえない時代だった。
だから卒論にはこんな風に書いた。
「日本の性暴力報道は
まだその質を比較したりできる
段階にはない」と。
しかくいパソコンの画面に
ありったけの怒りをこめて
書いたのだった。
あれから20年
性暴力報道を見ない日はない。
変わったことも随分ある。
でも、何も変わっていないではないかと
感じているのも事実だ。
それは何だろうと考えていた。
人類は歴史上
怒りの力で社会を変えてきた。
だから怒りは良いものとされてきた。
でも今、人類は
しかくいスマホやタブレットを握りながら怒り
論理的に考えられなくなっている。
報道が歴史を動かすものではなく
ただの経済的な刺激になっているからだ。
そしてすぐに忘れる。
次の怒り=刺激がやってくるからだ。
もはや怒りは中毒性のあるドラッグだ。
この状況にわたしは立ちすくむ。
♯MeTooは
経済をまわすための刺激じゃない。
むしろわたしたちは
歴史を動かすための
刺激でありたくて声をあげてきたのだ。
でも性暴力報道を巡る会見では
「被害者は同意していたのか
いなかったのか」が争点となる。
被害者の内心の自由を
侵害するような報道も散見される。
被害者に「今の気持ちは?」と
マイクを向けるような報道、そうした
「生々しいほどいい」とされる報道は
本当に報道と呼べるのか?
それでは、被害者がすべてを話さなければ
処分をしないと語る企業の体質と
何も変わらないのではないだろうか。
被害者の内心の自由を
侵害することを前提に
すべてが成り立っていて
そして怒りを使ってPVを稼ぐ
ビジネスモデルのなかに
性暴力被害者の尊厳が
花形コンテンツとして
ぶら下げられているこの現状。
これはポルノとどれだけ違うのだろう?
性暴力被害者は
コンテンツではない。
最近の研究では、性暴力被害者は
2億円の生涯所得を失うという。
被害を受けた影響で
キャリアを失うからだ。
警察に、検察に、裁判所に
報道機関に、民間企業に、学校に
リアルな性暴力被害者像を
知っている人がどれだけいるだろう。
わたしたちはここにいる。
リアルな存在としてここにいる。
性暴力被害者にこそ
リアルな人生観が必要だし
性暴力被害者にこそ
リアルなキャリアが必要だ。
性暴力被害者ですと名乗って
内心の自由の侵害を受けず
学びつづけ
働きつづけ
生きつづけ
誰かとかかわりつづけられる
そんな社会が必要だ。
それが20年を経て
わたしが今日表明する
しかくい、しかくい、怒りである。
(2025年2月11日)

「すぷだより」No.165に寄稿しました。

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