ポルノと報道

性暴力は、意思のある人を
意思がないかのように扱う暴力だ。
これまでは
被害者が必死にNOを伝える姿や
凍り付いて声すら出ない様子までもが
ポルノグラフィックな世界観の一部として
説明されてきた。
でも2023年に刑法が改正され
不同意性交等罪ができた。
意思のある人を
意思がないかのように扱うことの是非が
問われるようになった。
「それ法律違反だよ」と言える
そんな社会になったことは大きな変化だ。
でも刑法が変わったからといって
社会は急には変わらない。
被害を受けた人に何が起こるのか
何が問題なのかが
理解されているとは思わない。
先日、わたしの写真が
無記名のまま
新聞に掲載された。
大きな衝撃を受けた。
自分の名前を名乗ると決意して
発言している被害者の名前を
削る理由とは何だったのだろうか。
たしかに性暴力被害者が集まる場では
「写りたくない人は写さないで」という
定番のアナウンスが流れる。
フラワーデモの写真は
性暴力の象徴として
無記名のまま戦略的に使われることが多いし
顔がわからないような写真の撮り方で
匿名の被害者のインタビューが
掲載される記事も増えた。
こうしたことはある程度
報道のメソッドとして確立されているし
被害者の側からの要望でもある。
でもなぜそうする必要があるのか?
性暴力被害者も意思のある人間なのに
なぜわざわざフリー素材のような
撮り方をする必要があるのか?
そこにある傷つきとはどんなものなのかを
立ち止まって考えることが
減っているのではないだろうか?
ちょうど少し前から
「被害者を代弁する」という表現を
口にする記者が増えている気がして
気になっていた。
以前は新聞記者というものは
事実を伝えるものであって
「代弁する」ことは
タブーとされていた。
ガヤトリ・スピヴァクも言っている。
知識人が弱者の言葉を代弁することで
弱者の言葉は、社会にとって
都合のいいものに変換されていく。
そして社会は結局変わらないと。
だからわたしは自分の言葉で語る。
言葉だけではないと思うのだ。
弱者の写真を都合よく使うことに対しても
それが何をもたらすのか
もたらさないかを
よく考えた方がいいと思う。
性暴力被害者は人間なのだ。
性暴力被害者である前に
基本権を有する人間なのだから
ポルノグラフィックな認識論を
新たに拓く必要はないはずだ。
わたしはこの新聞社に話を聞きに行った。
「読んでもらうために写真が必要だった。
なぜなら我々は
ペンによって国家と対峙しているからだ」と
彼らは真剣に話した。
「でもそれは
性暴力被害者だって同じなのだ」と
わたしは話した。
記者会見を開くときや
ファインダーの前に立つときだけが
わたしたちの闘いの時間ではない。
自分の意思をどう扱うかを悩みぬき
横たわることも
痛みを自分より小さな存在に向けないよう
必死に生きることも闘いだ。
新聞記者の人口よりも
もっと多くの性暴力被害者が
それぞれの場所で
社会や国家の現実と対峙している。
意思を持つ具体的な存在として生きている。
わたしたちの尊厳がそこにある。
そんなわたしたちを
最初から意思の無い草花のように
扱うことはやめてほしい。
(2024年12月24日)

「すぷだより」No.162に寄稿しました。

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