「かわいそう」を脱ぎ捨てる
わたしたちは誰もが生活の中で
意見を言わないことを求められている。
人びとは意見を言うこと自体を
「大人げない」と噂し
意見を言う側が完璧でないと
「完璧でない」と噂する。
そしてわたしたちの生活には
あちらにもこちらにも、いつまでも
性暴力があふれている。
片方の目で言葉の砂漠を見て
もう片方の目で性暴力を見てきたわたしは
意見を言わせないことと性暴力
この二つはセットなのではないか?と
どうしてもそう感じてしまう。
性暴力被害者だと名乗って生活をするなかで
ひどく子ども扱いをされていると感じるときには
もっとはっきりとそう思う。
意思確認をされないままに
自分の名前が消されているのを見たときや
同僚たちが
自分の何倍もの給料を
もらっていると知ったとき
問わずにいられなかった。
性暴力被害者は今のまま
「かわいそうな人」で
いるべきなのだろうか。
半人前の扱いを受け入れて
慎ましく暮らし
彼らの「世間」を補強する存在で
あり続けるべきなのだろうかと。
「世間」というのはこうだ。
いただいた恩は
返さなければならないという
「贈与・互酬の原則」。
年長者や偉い人を
敬わなければならないという
「長幼の序」。
乗り掛かった舟では
同じ時間軸を共有すべきという
「共通の時間意識」。
これらが「世間」の代表的な論理だという*。
性暴力は「世間」の論理のなかで発動する。
たとえばわたし自身が性暴力に遭ったのは
加害者がわたしに「世間」の論理を
押し付けてきた結果だ。
「お前はちっぽけな存在だ。
その立場を受け入れろ」というのが
加害者のメッセージだった。
つまりどんなにいい刑法ができたとしても
人びとは刑法に従うことよりも
時に「世間」に従うことを選んでしまう。
そして沈黙が続く限り
「世間」の論理は安泰なのだ。
被害後、行く先々で
同じメッセージに出くわして
わたしは本当に気が狂いそうになった。
だからこれらの論理と距離を置くために
わざと性暴力被害者と名乗り
意見を言うようになった。
それでも再び沈黙の中で
「長幼」の「幼」にされそうになる。
たしかに性暴力被害者だけではない。
「世間」に苦しみ、沈黙しているのは。
けれどわたしたちはそれ以外の人と違っている。
もともと人間としての価値が半分だったから
性暴力を受けたわけでも
性暴力を受けて人間としての価値が
半分になったわけでもない。
だから半人前に扱われたくないし
「かわいそうな被害者像」を
受け入れることができないのだ。
そんなわたしたちは
「大人げない」とか
「なんとか様」とか
噂されるのかもしれない。
けれどもそんな噂話が
人間を楽にすることはないだろう。
それは意見ではないからだ。
意見とは何だろうか。
立場の弱い人にではなく
強い人に向かって言うのが意見ではないか。
そしてわたしたちが本当に
心の底から言いたい意見とは
年長者や偉い人や大多数の人が徒党を組んで
あなたに沈黙や臆病さを強いてきたとしても
それでもこらえきれず喉の奥からあふれてくる
悲鳴のようなものではないか。
「かわいそう」を脱ぎ捨てねばならないのは
性暴力被害者だけではない。
性暴力被害者だけではないのだ。
(2024年9月24日)
*阿部謹也著『日本人の歴史意識』(2004年)
「すぷだより」No.156に寄稿しました。