迷いを怠らない
わたしは毎日を迷いながら生きている。
性暴力の後ずっと続く体や頭の重さ
精神的な混乱
それらが目に見えないことから
要求される説明力の高さ
そんな今の人生のことを
まるで焼け跡のなかを
煤だらけで歩いているみたいだと
感じながら生活している。
でも、そんなわたしの心の風景は
外側からは見えない。
そのことがいろいろな困難を引き起こす。
先日、こんなニュースを目にした。
今、ウクライナでは
退役軍人の社会復帰が
問題化しているのだという。
見えている世界の違いによって
会話がかみ合わなくなってしまって
友人関係や恋人関係を
維持すること自体が困難になったり
フラッシュバックを目撃されて
守ってきたはずの市民から
精神異常者として扱われたり
忌避されたりしているのだという。
何だかまるで自分の話をというか
日本社会の話を観ているようだと
思ってしまった。
見えないものに対しては
当事者が自分の責任で説明しなければならず
見える症状については
過酷な病理化が行われてしまう。
そのような社会で
しばしば問題になるのは
どのように名乗るかということだ。
わたしは性暴力被害者と名乗ったり
元ライターと名乗ったりしている。
こんなわたしのことを
後ろ向きだと評する人もいる。
でも「ライター」と名乗ることは
どうしてもできないと感じている。
そこに何があるのかというと
わたしはメディアのなかにある
ヒエラルキー構造そのものを
恐ろしいと感じているのだ。
わたしのトラウマは
メディアの仕事のなかで受けた
性暴力に起因しているから
メディアのヒエラルキーに
組み込まれるような肩書を名乗ることを
ものすごく怖いと感じる。
「暴走するトラックの前に
立っているような気分になる」と言うと
少しわかってもらえるかもしれない。
けれど、このように説明できるようになったのは
ごくごく最近のことだ。
根本的な解決がなされない環境で
どうやって自分自身を
過酷な病理化から守っていくか。
わたしはそこで、ずっと迷ってきた。
迷うことは、後ろ向きなのだろうか?
聞くところによれば
PTSDという概念を
社会が組成したときにも
そこには迷いがあったという。
それは、この困難を個人の問題として捉えるか
社会の問題として捉えるかという迷いだった。
トラウマのなかには
社会制度に起因するものもあるから
トラウマを負った責任を
個人に帰することなどできない
精神医療の分野だけの問題になど
してはおけないのではないかと
当時はそんな議論がされていたらしい。
けれど今日では
そんなことではもう
誰も迷わなくなってしまったのかもしれない。
そして社会やヒエラルキーは
びくともしなくなった。
一方のわたしは
毎日毎日迷ってばかりいる。
こんなわたしにも
いつか恐れを持たずに
名乗ることができる日は来るのか。
わからないけれど
根本的な解決がないのならば
そんな社会を問いながら
迷いを怠らずに
生きていくしかない。
(2024年7月23日)