家族とケアと性的同意

最近よく考えるのは
性的同意というのは
普段の生活と関係があるということだ。
性暴力というのは
そこだけが普段の生活から
切り離されるようにして
起きるものではなく
普段の生活のなかの
文脈を利用する形で
起きることが多いからだ。
家庭や学校や職場などの
生活単位の人間関係の
上下の感覚とつながっている。
だから普段の生活から
性的同意「だけ」を切り取って
語ることは逆に難しい。
たとえば夫婦間においては
平等という話と
性的同意は強く関係している。
それはつまりケアの話だ。
普段の夫婦生活のなかで
誰がケアを担当しているのか
そもそもケアのニーズに
気付くスキルを、まなざしや
感受性として身につけているのか
誰かに教えられたことがあるか
そして「男らしさ女らしさというのは
社会的なフィクションであって
それによる役割分担で
苦しむ必要はない」という
ジェンダーに関する教育を
受けたことがあるか
といったことと関係がある。
こうした認識がなければ
普段の生活のなかでの
同意を積み重ねることなど
不可能だという事実と
性的同意は強く結びついている。
ケアという言葉にはもちろん
身体的なお世話だけでなく
心の動きに共感したり
声をかけて関係を築くなどの
心理面での働きかけも含まれている。
たとえば子どもが泣いているときに
「俺は仕事で疲れているんだから
お前が黙らせろよ」という意見の人と
どうやって生活のなかで
同意を積み重ねるのかという問題がある。
そういう意見の人と
性的なことで「だけ」同意をするのは
不可能ではないにしろ
とても難しいことだと思う。
たとえそこに悪気がなかったとしても
国家や社会が決めたものを
都合よく使っていると
言われても仕方がないと思う。
普段の生活のなかでの
こうした積み重ねを
歪な形で押し付けていているとしたら
その家族は壊れているのではないだろうか。
共同親権の議論のなかで
「離婚しづらい社会の方が健全だ」
というある議員の発言を聞いたけれど
壊れた家族について
国家がその形だけを守ろうとするのは
人権侵害になってしまうと思う。
少子化のために家族を守ると言っても
性的同意がないと
少子化は止められない。
同意はこうしたケアの分担と
分かちがたく結びついている。
歪な分担は上下関係をつくり出すからだ。
国家や社会は
そこで何ができるのだろうか。
明治以降、家族はずっと
刑法と民法がせめぎ合う主戦場だった。
でも人間の暮らしは
刑法、民法と明確には分けられない。
それは人間が後から作った
カテゴリー分けに過ぎないからだ。
もともと全部がつながっているし
葛藤があってしかるべきだ。
家族を人権の
ブラックボックスにするのはやめよう。
わたしたちひとりひとりが
感じている葛藤を大切にしよう。
個人的なことと卑下せずに
大切に扱おう。
刑法改正から一年。
ここから社会はまだ変わっていける。
(2024年06月11日)

「すぷだより」No.150に寄稿しました。

【すぷだよりNo.150】家族とケアと性的同意/ソウルで日本軍「慰安婦」について学ぶ

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