「うわごと」と物言わせぬ空気
わたしは子どもの頃
性暴力のある環境で育った。
でもそれは今だからわかることで
当時はそんなことはよくわかっていなかった。
親友が自殺してしまった原因が
性暴力だということは
衝撃的すぎて
すぐにわたしの記憶から消えてしまった。
たぶんその部分の記憶が消えたのは
わたし自身が生きていくために
必要なことだったのだと思う。
その後わたしは
子ども時代がなぜあんなに苦しかったのか
わからないままに苦しみ続け
それが性暴力のせいだったということを
ちゃんとわかったのは40歳になってからだった。
性暴力がある環境にいるということ
もしくは、そういう環境にいるのを
余儀なくされるということは
人間にそれ程の苦しみをもたらす。
そして苦しさの理由に気が付くためには
多くの人が思っているよりも時間がかかる。
たぶんそれは心理的な安全を手に入れるまでに
かかる時間の長さなのだと思う。
わたし自身もずっと40歳までは
「うわごと」を繰り返していたようなものだった。
なぜ故郷と距離をとるのか?と聞かれても
意味の通らないことを言っていたと思う。
きっとそのとき
わたしはおかしな目つきをしていただろう。
他の冷静で幸せな人生を送る人から見れば
「この人グルーミングされたんじゃないか」と
即座にわかるような顔つきをしていたかもしれない。
今考えると、とても恥ずかしく思う。
でも自分ではどうしようもなかった。
それは必要な時間だったとしか
表現することができない。
あの人は性暴力にあったとか
あの人はあっていないとか、そんなことは
その人自身にしか決められないことだし
性暴力のある環境にいたこと自体が
トラウマをもたらすこともある。
だからこそ選択肢をつくることが必要だ。
自分で選んで知っていくことができれば
この世には暴力がなくても回る世界があることが
心にするりと馴染むだろう。
心理的に安全な環境を知ることで、ようやく
自らの「うわごと」と向き合うことができる。
そこまでの時間をなるべく縮めることが必要だ。
スタートラインたりうる環境、つまり
ガバナンスが機能している環境というのは
たとえば報告・連絡・相談のうち
報告ができていることだけでは足りず
相談のできる環境でなければならない。
心理的安全がなければ
情報は伝達されないからだ。
なぜ社会の話をしていたのに
急にガバナンスの話をするのかと思うかもしれない。
それもビジネスからはじき出された側の
わたしのような人間がと。
それは、これまでビジネスの領域が
性暴力の議論の空白地帯になっていたからだ。
刑法改正に至る議論でも
ビジネスと人権の問題をとらえきれず
被害者を分類することに腐心し
「成人している女性は弱くない」と言って
地位・関係性を用いた性暴力について
ビジネスの場を想定しているとはっきりわかる形で
規定に盛り込むことを見送った。
でも、ビジネスのステークホルダーは
「成人している女性」だけではないことを
ジャニーズ性加害問題が示している。
わたしたち被害者は気が付いているのだ。
これは芸能界やメディアだけの問題ではないと。
わたしが子ども時代を過ごした性暴力の環境も
ビジネスによってつくり出された環境だったし
その環境から離れるために働いた次の環境にも
ビジネスの中に性暴力があった。
いや、もっとはっきり言うべきだ。
性暴力がビジネスの手段となっていたと。
性暴力によって言うことを聞かせたり
言うことを聞くかどうかを見極めたり
「うわごと」を揶揄することで
物言わせぬ空気をつくりだしたと。
それは本当にありふれた日本の風景だった。
でも、それは異常なことだ。
その異常性を認めなければ、ビジネスのなかで
心理的安全性を実現することはできないだろう。
これは社会そのものについての話なのだ。
(池田鮎美)